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日 本 漢 詩
『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ

2007/11/27 (火) 前原 一誠

まえばら いつせい (ばいそう )
前原一誠 (1834〜1876) 字は子明、通称八十郎、後、彦太郎と改めた。号は梅窓。
本姓は佐世。父は長州藩士で、名は彦七.一誠は天保五年三月二十日、その長子として生まれた。
はじめ長門国厚狭郡小野田で農漁に従事し、又父を助けて陶器製造もやっていたという。
七歳の時より塾師について文字を学び、安政四年 (1857) 二十四歳、はじめて吉田松陰の松下村塾に入ってその指導を受け、尊皇攘夷の思想に目覚めていった。
松陰は、 「一誠は勇あり知あり、誠実は群を抜いている。その才は玄瑞に及ばず、その識は晋作に劣るかも知れないが、その人物の完全さにおいては、二人も遠く及ばない」 といっている。 松陰がその人物を見込んで、大きな期待を寄せていたことが解る。
翌五年十二月、松陰は老中間部詮勝の暗殺を計画しており、その言動は急速に激化していった。ために藩政府は松陰を再び獄に下そうとした。一誠は吉田栄太郎。入江杉蔵・品川弥次郎らと執政の周布政之助にはげしい抗議を行い、これがために謹慎を命ぜられた。
翌六年二月、松陰は獄中に在って間部伏見要籠策を一誠ら門下生にやらせようとし、当時江戸にいた高杉・久坂らはその成功の見込みのないところから、これを思い止まらせようとしていたが、一誠の不注意な一言から事露われ、入江杉蔵・野村靖兄弟の逮捕となり、続いて松陰の江戸護送、十月二十七日の処刑となった。
一誠はその刑死を断腸の思いで聞いたし、これによって激しい怒りを爆発させ、師松陰の志を継がねばならぬと奮起する。
猛烈に学問に精進したのもその為であった。 (二月選ばれて長崎に留学、五月帰り、八月、藩の西洋学問所に入り、十月、松陰の死刑を聞く。)
文久元年 (1861) 十月、練兵場に入り、同舎長となった。
二年四月、長州藩では、長井雅楽の推進した公武合体の策がまさに成就せんとする時であった。 薩摩の島津久光が大兵を率いて上洛するという情報も伝わった。
これを機に、尊皇攘夷の志士たちは結束して討幕の運動を起こそうとし、長州での推進役をつとめたのは久坂玄瑞と一誠であった。
乃ち兵庫警衛を名目として入洛し、周布政之助の肥後の下に、藩主毛利敬親に対し長井雅楽の弾劾建白書を呈し、公武合体の放棄を建言した。
また一方、公武合体派の関白九条尚忠の暗殺を企てたが、寺田屋事件が伝えられて中止し、六月一日、今度は長井雅楽の暗殺を計画して草津に向かった。しかし長井を発見できず、事は未遂に終った。 ついで長井は失脚し、藩論は破約攘夷に一変した。
三年、蛤御門の変によって七卿の都落ちとなるや、その御用掛りとなり、第一次長州征伐の後には、高杉晋作らと恭順派を制して藩論を統一し、干城隊を組織してその頭取となり、第二次長州征伐には軍需輸送を統括し、また小倉藩との折衝に当るなど、めざましく活躍した。
慶応三年 (1867) 十二月には海軍頭取となり、明治元年 (1868) 六月には干城隊を率いて北越に転戦し、七月には北越軍参謀に任ぜられた。 二年七月、参議に補せられ、十二月、兵部大輔となった。
しかし木戸孝允や大久保利通と意見が合わず、三年九月、職を辞して萩に帰った。
四年正月八日、最も親しかった参議広沢真臣 (兵助) が暗殺された。広沢は木戸と対立していたので、当時、広沢を暗殺したのは木戸ではないかという噂があった。
六年十月、征韓論に破れた西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副嶋種臣らは袂を連ねて下野した。
七年二月、不平士族に推されて江藤新平が佐賀に乱を起こした。西郷隆盛・前原一誠にも決起を呼びかけて来たが共に応ぜず、一誠は極力県下の士族を諭して、動揺させなかった。
伊藤博文は前原を野におくべきでないとして、しきりに出京士官を勧めたが応じない。
八年、特命によってやむなく上京、伊藤は元老院参議官に推薦しようとしたが、一誠は承知せず、そのまま帰郷した。
維新政府の開明政策に不満を抱く士族は、その頃から活発に連繋をとり、翌年十月に至り、相次いで反乱を起こし、一誠もついにこれに策応して萩に乱を起こした。即ち十月二十四日、熊本に太田黒伴雄・大野鉄平らの神風連の乱、二十七日、福岡に宮崎車之助らの秋月の乱、三十一日、前原一誠の萩の乱と続く。
しかし神風連は児玉源太郎少佐の率いる鎮台兵のため、翌日には鎮圧され、秋月の暴動も小倉分営の兵に討伐されてしまった。
一誠は二十八日に行動を起こし、百五十六名の兵を率いて山口県須佐から三十余隻の漁船に分乗し、海路山陰道を東上しようとしたが、風波にあい、進むを得ず、須佐に引き返し、反転して山口に出て、三十一日、三浦梧楼の率いる広島鎮台の兵と衝突、激戦の甲斐もなく、兵糧弾薬の欠乏のため麾下の兵は四散し、十一月六日、一誠は石見・出雲の国国境付近で捕らえられ、十二月三日、斬罪に処せられた。年四十三。
ロシアにいた榎本武揚は、 「前原とのあろう人が馬鹿なことをしたものだ」 と惜しみつつも、何とかこれを助けようとしたが、力及ばず、かくて、維新第一級の功労者を以って、身は斬罪に処せられたのである。しかし大正五年特旨を以って従四位を贈られたのであるから、その誠意と維新の功労は認められたことになり、定めし地下に感激していることと思われる。
一誠はその持ち前の正直さから、政府の不正・不善と大官の私利・私欲にふけるのを黙視出来ず、これを糾弾したので、寧ろ純粋であったともいえるが、時代を見透す才と識の欠如が、自ら指導者の地位をすべって、反体制側に身を置く事になってしまったので、誠に気の毒であったといわねばならぬ。
『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ