だい
阿倍 仲麻呂
701 〜 770


した むな しく

ちゅういた すもこう まつ たからず

おんむく ゆるいく にち

くにかえ るはさだ めていず れのとし
慕義名空在

輸忠孝不全

報恩無幾日

歸國定何年

(通 釈)
人のふみ行うべき道である 「義」 を求めて励んできたが、空しい名声だけがあるばかり。
故郷を離れ、唐土に来ているのは、君に忠を尽くすことになるが、親に孝を尽くすことが出来なくなってしまっている。
私も年を重ね、この先、親の恩に報いたくてもその日が何日もなくなってしまった。
果たして日本へ帰国できるのはいつであろうか。

○義==人としてふみ行うべき道。
○輸==いたす。 「致」 と同じ。真心を持って人に対すること。
○定==いったい。果たして。


(解 説)
日本を遠く離れた唐の地で、故国への思いを詠った詩。
仲麻呂は十六歳で遣唐留学生に選ばれて唐に渡り、三十余年の滞在の後、遣唐大使として入唐していた藤原清河とともに帰国しようとした。そのとき、明州 (浙江省寧波) まで旅行し、詠ったのが、
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
の和歌である。
この詩とともに強い望郷の気持ちがよく表現されているが、結局は、帰国の途中、船が暴風に遭って、とうとう日本の地を踏むことなく客死した。
(鑑 賞)
この詩は、親を思い、国を思う気持ちが率直に詠われている好詩である。
仲麻呂は玄宗皇帝に仕え、外国人としては異例の出世をしたが、やはり故郷を離れて久しくなれば、望郷の念もひとしおである。ことに親に対して膝下に侍することが出来ないのは、子として申し訳が立たない。
その思いが後半の 「幾日も無し」 といたずらに年を重ねる焦燥を詠う句となる。
結句 「国に帰るは定めて何れの年ぞ」 は、杜甫の 「絶句」 「何れの日か是れ帰年ならん」 とよく似ている。
仲麻呂が日本にとうとう帰ることが出来ず、唐土で客死したことを思えば、この句に、より一層の重みが感じられる。