ゆう ぎん
孟 郊
751 〜 814


しゅ ちゅうせん

ゆう しん じょう

こうのぞ んで密々みつみつ

おそ としてかえ らんことを

たれ寸草すんそうこころ

さん しゅんむく んと
慈母手中線

遊子身上衣

臨行密密縫

意恐遲遲歸

誰言寸草心

報得三春暉

(通 釈)
慈愛深い母の手の中にある糸は、旅に出るわがが子の身につける衣服を縫う為のものだ。
わが子の遊学の出発に際して、一針一針針目細かく、思いを込めて縫っている。そして、心配していることは、帰りが遅くならないかということだ。
一寸草のように、子供がわずかばかりの孝心を持ったからといって、親の恩に報いるなどとだれがいえようか。
親の子供に対する愛というものは、春三か月の暖かい陽光が草木を育てるように広大無辺なのである。

○遊子吟==楽府題。故郷を離れている者の歌。
○線==糸。 ○遊子==旅人。遊学する人。
○寸草心==親を思う子供の心。
○三春==春三か月。孟春・仲春・李春 をいう。
○暉==日の光。


(解 説)
孟郊の得意とした五言古詩の作品。旅するわが子に対する母の慈愛の情を、愛児の旅の支度をする母の姿を題材に、ほのぼのと詠じている。

(鑑 賞)
孟郊五十歳頃の作。
中年過ぎてやっと得た官も、身分の低いもので、老母に満足な暮らしをさせることが出来なかった。そうした自分を、自ら責めた詩でもあるということが出来る。
前四句は、慈愛に満ち満ちている母の暖かさを述べ、後半の二句はどのようにしても、報恩出来ないと嘆いている。
前半は素朴なタッチの対句を使用し、ほのぼのとした暖かみをかもし出している。それにしても、子を思う母の愛、母を思う子の愛がしみじみと詠じられ、古風な形の中に新鮮な視点が感じられるのである。