きん こく えん
杜 牧
晩唐 (803)〜(852)


はん こと さん じてこう じん

りゅう すい じょう くさ おのずかはる なり

にち とう ふう てい ちょううら

らつ たりつい ろうひと
繁華事散遂香塵

流水無情草自春

日暮東風怨啼鳥

落花猶似墜樓人

(通 釈)
昔、ここ金谷園で繰り広げられた豪奢な遊びは、香しい塵のあとかたもなく消えるのを追って散じ、今は偲ぶよすがもない。
流れる水は、人事の興亡をよそに無情にせせあらぎ、草は春の装いをこらして生い茂るばかりである。
日の暮れ方にたたずめば、春風に吹かれて鳥の啼く声も怨み深く聞こえてくる。
おりしも、目の前を花びらがハラハラと落ちてゆく、そのさまはかってここで楼から袂を翻して落ちていったあの緑珠に似ているようだ。

○金谷園==河南省洛陽県の西北にある、晋の石崇 (セキスウ) の別荘。
○香塵==香りの良い塵。
○怨啼鳥==啼鳥を怨む、と読むが、意味は 「鳥の啼く声が怨みぶかい」 ということである。したがって、 「啼鳥怨む」 と読むほうが意味には即している。
○墜樓人==石崇の愛人緑珠のこと。


(解 説)
晩春の夕暮れ、いにしえの金谷園のあとに立ち、懐古の情に沈んで作った詩。
(鑑 賞)
杜牧の得意な懐古の詩である。かっての金谷園の繁華と、今の現実の荒れた情景とがうまく相対してとらえられている。
金谷園の遊びといえば、歴史上豪奢な遊びとしてひときわ知られるものである。石崇がいかに贅沢な暮らしをしていたか、 『世説新語』 汰侈 (タシ) 篇に色々エピソードが語られている。
例えば、便所には十余人の侍女がきらびやかな着物で居並び、あらゆる香を焚き染め、用を足す人は新しい着物に着替えさせられるとか、高さが三尺、四尺もある珊瑚を六、七本持っていたとか、蝋燭 (当時は高級品) で米を炊いたとか。
その豪奢な金谷園の現実はどうかというと、草の生い茂るままにまかせた荒れ様、春風にもの悲しく鳥が啼く。かっては笙や琴やと音楽の粋を凝らしたであろうに、聞えるものはせせらぎと鳥の声、あえて 「無情」 といわずとも、読者の胸の中にはもう一杯の悲傷がこみ上げてくる。
日に暮れ方まで、ずっとたたずんで思いに耽っている作者の眼前に、ひと、一ひら花びらが落ちてゆく。上手いのはこの結句である。作者はその花びらの落ちるさまによって、ここで楼から落ちて死んでいった美人を連想する。絶妙の着想。甘いセンチメンタルな味。春の夕暮れの気分、無常観、懐古の思いが渾然と融け合って、みごとな詩の世界を作り出している。
なお、与謝野晶子の歌に、 「金色の小さき鳥の形して 銀杏散るなり 夕日の丘に」 というのがあるが、一脈通うものがあるように感ぜられる。